AREA「Maledetti」、アレア「呪われた人々」、レビュー

皆様ご機嫌よう。
2月になり、ボーッとしてるとあっという間に春ですよ、桜が咲きまっせ。

ってなわけで今回も小林和真の独断的CDレビュー、いきますよー!

今回ご紹介するのは、記念すべきプログレッシブ・ロックのCDレビュー第一号にして、フランスのプログレッシブ・ロックバンド、“マグマ”と共に、私の音楽観を一気に変えるきっかけとなった、イタリアのアヴァンギャルド、プログレッシブ・ロックバンド、“アレア”の4thスタジオ・アルバム「Maledetti」です。
アレアはデビューアルバム、そして3rdアルバムの「Crac」も素晴らしいのですが、アレアのアルバムレビュー第一号でこのアルバムを書くに至ったのは、この4thアルバムの怒涛の勢いと、何ものも寄せ付けないような、他の追随を許さないような驚異的なアンサンブル、そしてアルバムの最後を飾る曲・・・後ほど解説しますが、この一曲が私の音楽観を根底から、ちゃぶ台どころの騒ぎじゃないくらいひっくり返してくれました。もちろん良い意味で、です。

残念ながら現在和訳の歌詞カードを失くしてしまい、どこかにはあると思うのですが、歌詞を咀嚼する事は出来ませんが、歌詞カードなんて、それこそ“言葉”など必要の無い勢いの、何よりもヴォーカルのデメトリオ・ストラトスの人間離れした驚異的な歌唱力が、歌詞の事など忘れさせてくれるほど素晴らしいので、歌詞の内容についてはあまり触れないでおきます。

まずアルバムジャケット、表も中も裏ジャケットも、人体の解剖図が軒を連ねています。
誠にグロテスクなジャケットですが、それでもデスメタル、ゴア・グラインド界隈のジャケットに比べたらまだ大人しい方ですし、医学的な人体解剖図のジャケットなので、ともすればある種の知性を漂わせるジャケットですが、それもそのはずタイトルの「Maledetti」、イタリア語で“呪われた”という意味の単語らしく、邦題も「呪われた人々」と、メッセージ性が感じられます(余談ですが、マグマの「M.D.K」のスタジオ・アルバムの邦題も「呪われし地球人たちへ」という邦題が付けられていましたが、こちらは元のタイトルとまったく関係なく、といってもマグマのクリスチャン・ヴァンデの創作した言語、コバイア語で、自ら惑星コバイアからの交信をしているなどと言っており、あながち邦題も間違ってはいないと思いますし、マグマのクリスチャン・ヴァンデとアレアのデメトリオ・ストラトスは、アルバムタイトル含め、歌唱法がとても通ずるものがあり、ヨーロッパプログレッシブ・ロックの二大巨頭は、やはりこの二つのバンドですね。邦題はB級ホラー映画でよくあった、やれ「死霊のはらわた」だの「死霊の盆踊り」だの、「悪魔のいけにえ」、トロマ制作の映画の「悪魔の毒々」シリーズなんかに連なるような、ちょっとした遊び心で日本のレコード会社の人々が付けたのでしょうね)。
ライナーノーツにも書かれていましたが、アルバム全体を通して物語のあるコンセプト・アルバムとなっているらしく、手元に歌詞カードが無いのが惜しいですね、、、たたでさえ左翼的な、政治色の強いバンドなので、早く見つかって欲しいです。どこに行ったのやら。。。

1曲目の「Evaporazione」、同じくピンク・フロイドの「狂気」の1曲目を思わせる、“走る足音”と口笛、いきなりミュージック・コンクレート的な曲で幕を開け、そしてデメトリオ・ストラトスの語りが入ります。曲の最後でリバーブの効いた「サ・カ・ナ・・・!」というストラトスの叫びの空耳が聞けます。
2曲目の「Diforisma Urbano」はファンキーなジャズ・ロックで、ドラムが乱舞し、ベースが唸り、シンセが躍り、ストラトスの歌唱力が堪能出来るスピード感のある楽曲です。
3曲目の「Gerontocrazia」はストラトスの中東、地中海地域を思わせる歌唱から幕を開け、そのバックでソプラノ・サックスが無調性な音階をなぞり、これまた地中海、中東に面した地域を思わせる、北アフリカ付近の打楽器が叩きまくりです。
そしてコントラバスのアルコ、弓弾きの演奏が割り込んできて、ストラトスの歌が一気に加速します。
その後、これまたシンセが躍り、ストラトスの歌が狂喜乱舞し、ウッディで生々しいフレットレス・ベースが唸りをあげドラムが乱舞する変拍子だらけの高度なジャズ・ロックアンサンブルが繰り広げられます。
4曲目の「Scum」では、おかしなピアノのリフの反復に始まり、これまたウッディで生々しいフレットレス・ベースの音色、変拍子だらけのドラム、ストラトスの歌とピアノ、シンセのユニゾン、なんでもありのフリー・ジャズ・ロック的な楽曲で、曲の終盤、シンセのポコポコした音の中、20世紀ポップカルチャーに多大な影響を与えた、言わずと知れた芸術家、アンディ・ウォーホルを暗殺しようとした過激なフェミニスト、ヴァレリー・ソラナスの出版した本のタイトル曲と同じ「Scum」から引用したソラナスの言葉をストラトスが語り、叫びます。そしてこれまで登場した楽器のユニゾンでシメます。
5曲目 の「Il massacro di Brandeburgo numero tre in sol maggiore」は変わり種で、いきなりバッハの弦楽四重奏曲が入ってくるのですが、果たしてどういった了見でこの曲を収録したのか、詳しくはライナーノーツを見ないと分からないと思うので、割愛します。政治色強いバンドですから、何かしらの意図するところがあっての選曲なのでしょう。
6曲目の「Giro, Giro, Tondo」ではストラトスのこれまたエスニックな歌唱法、歌の多重録音と、民族的な笛の演奏で幕を開け、ピアノ、ドラムが入ってくるとストラトスは“ウェオウェオレロレロ”といった具合に歌い、そのまま圧倒的な歌唱力で一気に突っ走ります。
その後、ハモンドオルガンとベース、ドラムのファンキーなジャズ・ロックに姿を変え、その上でミニマルなシンセの旋律が反復され、ストラトスも縦横無尽に歌い上げ、テンポの早いファンキーなジャズ・ロックへと突き進んでいきます。
そしてシンセのポリリズムを伴ったミニマルな反復の中で静かに幕を閉じます。
7曲目の「Caos(parte seconda)」・・・私はこの曲との出会いがきっかけで、自らの薄っぺらな音楽観を根底から覆されざるを得ないのでした。これは「私の音楽観」ページの「私の芸術論 〜音楽編〜」にリンクされてあるPDFファイル内でも触れている事です。
ストラトスの“ラララララララー!”の雄叫びで幕を開け、聴いたこともないような打楽器なのかなんなのか、まったく識別がつかない状態で無調性な音階をなぞるサックスに、ストラトスの二日酔いのおっさんの朝のえずきのような声、屁のような音、ゲップ、息継ぎ・・・そしてサックスが引き続き無調性な音をなぞる中、やかんに少々の水を入れて底面を叩いた時になるような音、わけの分からない打楽器の音、めちゃくちゃなシンセ音、ストラトスのカエルの鳴き声のような歌声、というか“声”・・・。
途中、ピアノの低音部ではじき出された音は故意か偶然か、ピンクパンサーの旋律が鳴らされます。
ストラトスはその後、どこの民族歌唱か分からない、モンゴルのホーミーとも違った民族的な雄叫びをあげ、その中で鳴り響く無調性なサックスとキスのような、接吻するような音・・・そして全ての音が一気に爆発し、ストラトスはストラトスで喘ぎ声、雄叫び、叫び声、ファルセット、スキャット・・・ともかく“声帯器官”というものを使い、声を器楽的に使ったり、旋律をなぞったり、叫んだり、雄叫びをあげたり、考えられる限りで声を、口を、声帯器官を使い、声帯器官というものの限界に挑んでいる事が分かります。声はリード楽器に近いですが、それ以外の音も出せるのです。
初めて聴いた時、一体この人の人生に何があったのだろうと、難解過ぎてまったく良さが分かりませんでしたが、ふと考えてみると“音”という普遍的な物理現象を極限まで推し進めれば、必然とこのようなノイズ・ミュージック、いわゆる前衛音楽になり、それはフリー・ジャズや無調性や12音階技法を特徴とする現代音楽界隈とも隣接するものであり、何も“ドレミファソラシド”、あるいは“ラシドレミファソラ”だけがこの世の音ではないことに気付いたのです。

その昔、約4年前の音楽に触れ始めた時期私は「ところで“音”ってのは、例えば“ドレミファソラシド”、長音階だけしかこの世には存在しないのか? 今、自分が喋り、言葉を発している“音”も、“ドレミファソラシド”の間に音は存在しないのだろうか? 白鍵7つと、黒鍵5つの12音しかないのだろうか?」と考え始めていました。

少し経つと、アラブ音楽のマカームに代表される“微分音”という音楽概念があることを知り、“平均律”の“ドレミファソラシド”は、極めて人工的、数学的に定められたもので、“純正律”が音の正確さといった点では優っているものの、あらゆるキーへ移行出来ない弊害が生じ、そこであらゆる音に移行出来る、ハーモニーを追求した先人たちが“平均律”を作りあげた事を知りました。
それから、この曲からノイズ・ミュージックや、ジョルジュ・リゲティのミクロポリフォニー、トーン・クラスターなど、現代音楽への関心に移り、このサイトの右上にも書かれてある通り、「“音”は普遍的な物理現象であって、それを洗練させたのが“音楽”なんだ」という私自身の音楽哲学を築くに至りました。

私は音楽を端から「出来ない」と決め付けている人に対して、いつももどかしさを覚えます。怒鳴ったり、叫んだり、笑い声をあげること、今あなたが声帯器官を通して発される言葉、“音”の響きこそが、それを推し進め、聴衆と演奏者、演奏者はどんな形であれ、どんな音を出していても、平均律を無視したものを演奏していたとしても“音楽を演奏している”という演奏者の意識さえあれば、そして聴衆がそれを“音楽”と認識した時点で“音楽”というものは成立するのだと思います。

このアレアのアルバム「Maledetti」は、間違いなく今の私の音楽観を形成するのに欠かせないものであったと思います。
ダイアトニック・キーなどできれいにまとめられたポップ・ミュージック、アレンジのしっかりした音楽、19世紀以前のクラシック音楽、管弦楽の一糸乱れぬ演奏も良いですが、それは現代ではテンプレート化された音楽であり、また没個性的な「まとまりすぎた音楽」は「まとまりすぎない音楽」の不安定さに取って代わる時代がきたのでしょう。
そしてそれは、従来のクラシック音楽の“調性の放棄”に代表される「現代音楽」と呼ばれるものが出来上がり、それはフリー・ジャズとも隣接し、理論的な性質上、ノイズ・ミュージックなどとも、親和性を持つものであることを。

「まとまりすぎた音楽」に聴き慣れた人々は、まずこのジャケットのイラストに忌避する事でしょうが、このアルバムの
「Caos(parte seconda)」は「まとまりすぎた音楽、平均律に慣れ親しみすぎた音楽」に触れている人々の耳にどう聞こえるか、とても興味深いですね。

何はともあれアレアは、ストラトスの驚異的な歌唱法に“歌唱力”などという言葉をチンケな言葉に思わせるほどの、そして前衛性と大衆性が、見事に調和された、唯一無二の類稀なるバンドだという事をこのアルバムで思い知らされました。

今後もアレアのアルバムレビューや、マグマなどのプログレッシブ・ロック、主にヨーロッパの、イタリアンプログレッシブ・ロック、オパス・アヴァントゥラやオザンナなどのレビューを、このプログレッシブ・ロックカテゴリーで記載していこうと思います。
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