角松敏生さんのライブへ

日付け変わりまして昨日は角松敏生さんのライブ行って参りました。
去年はチック・コリア&スタンリー・クラークの仙台公演へいきましたが、今年は初、生角松さんで夏を。
私はまだ角松敏生ファン歴は短いので知らない曲ばかりでしたが、3時間半、たっぷりと楽しんできました。
そして何よりも私の目的は、生音でプロのミュージシャン達の演奏を聴く事、ライブでのアレンジメントを今後の参考にしたく、その意味でもとても勉強になりました。

もーう、オレももう一回ライブやりたい!
しかしまだ無名も無名なので中々現状はキビシーものです、、、
とりあえずバンドメンバー見つけないと!
しかし果たしてプログレッシブ・ロックからファンク、ジャズ、ボサノバ、ノイズミュージック、AOR、実験音楽、現代音楽まで一緒に網羅出来るような方は現れるのだろうか、、、そして果たしてそれは実現出来る日が来るのだろうか、、、

何はともあれ楽しかったです!

AREA「Maledetti」、アレア「呪われた人々」、レビュー

皆様ご機嫌よう。
2月になり、ボーッとしてるとあっという間に春ですよ、桜が咲きまっせ。

ってなわけで今回も小林和真の独断的CDレビュー、いきますよー!

今回ご紹介するのは、記念すべきプログレッシブ・ロックのCDレビュー第一号にして、フランスのプログレッシブ・ロックバンド、“マグマ”と共に、私の音楽観を一気に変えるきっかけとなった、イタリアのアヴァンギャルド、プログレッシブ・ロックバンド、“アレア”の4thスタジオ・アルバム「Maledetti」です。
アレアはデビューアルバム、そして3rdアルバムの「Crac」も素晴らしいのですが、アレアのアルバムレビュー第一号でこのアルバムを書くに至ったのは、この4thアルバムの怒涛の勢いと、何ものも寄せ付けないような、他の追随を許さないような驚異的なアンサンブル、そしてアルバムの最後を飾る曲・・・後ほど解説しますが、この一曲が私の音楽観を根底から、ちゃぶ台どころの騒ぎじゃないくらいひっくり返してくれました。もちろん良い意味で、です。

残念ながら現在和訳の歌詞カードを失くしてしまい、どこかにはあると思うのですが、歌詞を咀嚼する事は出来ませんが、歌詞カードなんて、それこそ“言葉”など必要の無い勢いの、何よりもヴォーカルのデメトリオ・ストラトスの人間離れした驚異的な歌唱力が、歌詞の事など忘れさせてくれるほど素晴らしいので、歌詞の内容についてはあまり触れないでおきます。

まずアルバムジャケット、表も中も裏ジャケットも、人体の解剖図が軒を連ねています。
誠にグロテスクなジャケットですが、それでもデスメタル、ゴア・グラインド界隈のジャケットに比べたらまだ大人しい方ですし、医学的な人体解剖図のジャケットなので、ともすればある種の知性を漂わせるジャケットですが、それもそのはずタイトルの「Maledetti」、イタリア語で“呪われた”という意味の単語らしく、邦題も「呪われた人々」と、メッセージ性が感じられます(余談ですが、マグマの「M.D.K」のスタジオ・アルバムの邦題も「呪われし地球人たちへ」という邦題が付けられていましたが、こちらは元のタイトルとまったく関係なく、といってもマグマのクリスチャン・ヴァンデの創作した言語、コバイア語で、自ら惑星コバイアからの交信をしているなどと言っており、あながち邦題も間違ってはいないと思いますし、マグマのクリスチャン・ヴァンデとアレアのデメトリオ・ストラトスは、アルバムタイトル含め、歌唱法がとても通ずるものがあり、ヨーロッパプログレッシブ・ロックの二大巨頭は、やはりこの二つのバンドですね。邦題はB級ホラー映画でよくあった、やれ「死霊のはらわた」だの「死霊の盆踊り」だの、「悪魔のいけにえ」、トロマ制作の映画の「悪魔の毒々」シリーズなんかに連なるような、ちょっとした遊び心で日本のレコード会社の人々が付けたのでしょうね)。
ライナーノーツにも書かれていましたが、アルバム全体を通して物語のあるコンセプト・アルバムとなっているらしく、手元に歌詞カードが無いのが惜しいですね、、、たたでさえ左翼的な、政治色の強いバンドなので、早く見つかって欲しいです。どこに行ったのやら。。。

1曲目の「Evaporazione」、同じくピンク・フロイドの「狂気」の1曲目を思わせる、“走る足音”と口笛、いきなりミュージック・コンクレート的な曲で幕を開け、そしてデメトリオ・ストラトスの語りが入ります。曲の最後でリバーブの効いた「サ・カ・ナ・・・!」というストラトスの叫びの空耳が聞けます。
2曲目の「Diforisma Urbano」はファンキーなジャズ・ロックで、ドラムが乱舞し、ベースが唸り、シンセが躍り、ストラトスの歌唱力が堪能出来るスピード感のある楽曲です。
3曲目の「Gerontocrazia」はストラトスの中東、地中海地域を思わせる歌唱から幕を開け、そのバックでソプラノ・サックスが無調性な音階をなぞり、これまた地中海、中東に面した地域を思わせる、北アフリカ付近の打楽器が叩きまくりです。
そしてコントラバスのアルコ、弓弾きの演奏が割り込んできて、ストラトスの歌が一気に加速します。
その後、これまたシンセが躍り、ストラトスの歌が狂喜乱舞し、ウッディで生々しいフレットレス・ベースが唸りをあげドラムが乱舞する変拍子だらけの高度なジャズ・ロックアンサンブルが繰り広げられます。
4曲目の「Scum」では、おかしなピアノのリフの反復に始まり、これまたウッディで生々しいフレットレス・ベースの音色、変拍子だらけのドラム、ストラトスの歌とピアノ、シンセのユニゾン、なんでもありのフリー・ジャズ・ロック的な楽曲で、曲の終盤、シンセのポコポコした音の中、20世紀ポップカルチャーに多大な影響を与えた、言わずと知れた芸術家、アンディ・ウォーホルを暗殺しようとした過激なフェミニスト、ヴァレリー・ソラナスの出版した本のタイトル曲と同じ「Scum」から引用したソラナスの言葉をストラトスが語り、叫びます。そしてこれまで登場した楽器のユニゾンでシメます。
5曲目 の「Il massacro di Brandeburgo numero tre in sol maggiore」は変わり種で、いきなりバッハの弦楽四重奏曲が入ってくるのですが、果たしてどういった了見でこの曲を収録したのか、詳しくはライナーノーツを見ないと分からないと思うので、割愛します。政治色強いバンドですから、何かしらの意図するところがあっての選曲なのでしょう。
6曲目の「Giro, Giro, Tondo」ではストラトスのこれまたエスニックな歌唱法、歌の多重録音と、民族的な笛の演奏で幕を開け、ピアノ、ドラムが入ってくるとストラトスは“ウェオウェオレロレロ”といった具合に歌い、そのまま圧倒的な歌唱力で一気に突っ走ります。
その後、ハモンドオルガンとベース、ドラムのファンキーなジャズ・ロックに姿を変え、その上でミニマルなシンセの旋律が反復され、ストラトスも縦横無尽に歌い上げ、テンポの早いファンキーなジャズ・ロックへと突き進んでいきます。
そしてシンセのポリリズムを伴ったミニマルな反復の中で静かに幕を閉じます。
7曲目の「Caos(parte seconda)」・・・私はこの曲との出会いがきっかけで、自らの薄っぺらな音楽観を根底から覆されざるを得ないのでした。これは「私の音楽観」ページの「私の芸術論 〜音楽編〜」にリンクされてあるPDFファイル内でも触れている事です。
ストラトスの“ラララララララー!”の雄叫びで幕を開け、聴いたこともないような打楽器なのかなんなのか、まったく識別がつかない状態で無調性な音階をなぞるサックスに、ストラトスの二日酔いのおっさんの朝のえずきのような声、屁のような音、ゲップ、息継ぎ・・・そしてサックスが引き続き無調性な音をなぞる中、やかんに少々の水を入れて底面を叩いた時になるような音、わけの分からない打楽器の音、めちゃくちゃなシンセ音、ストラトスのカエルの鳴き声のような歌声、というか“声”・・・。
途中、ピアノの低音部ではじき出された音は故意か偶然か、ピンクパンサーの旋律が鳴らされます。
ストラトスはその後、どこの民族歌唱か分からない、モンゴルのホーミーとも違った民族的な雄叫びをあげ、その中で鳴り響く無調性なサックスとキスのような、接吻するような音・・・そして全ての音が一気に爆発し、ストラトスはストラトスで喘ぎ声、雄叫び、叫び声、ファルセット、スキャット・・・ともかく“声帯器官”というものを使い、声を器楽的に使ったり、旋律をなぞったり、叫んだり、雄叫びをあげたり、考えられる限りで声を、口を、声帯器官を使い、声帯器官というものの限界に挑んでいる事が分かります。声はリード楽器に近いですが、それ以外の音も出せるのです。
初めて聴いた時、一体この人の人生に何があったのだろうと、難解過ぎてまったく良さが分かりませんでしたが、ふと考えてみると“音”という普遍的な物理現象を極限まで推し進めれば、必然とこのようなノイズ・ミュージック、いわゆる前衛音楽になり、それはフリー・ジャズや無調性や12音階技法を特徴とする現代音楽界隈とも隣接するものであり、何も“ドレミファソラシド”、あるいは“ラシドレミファソラ”だけがこの世の音ではないことに気付いたのです。

その昔、約4年前の音楽に触れ始めた時期私は「ところで“音”ってのは、例えば“ドレミファソラシド”、長音階だけしかこの世には存在しないのか? 今、自分が喋り、言葉を発している“音”も、“ドレミファソラシド”の間に音は存在しないのだろうか? 白鍵7つと、黒鍵5つの12音しかないのだろうか?」と考え始めていました。

少し経つと、アラブ音楽のマカームに代表される“微分音”という音楽概念があることを知り、“平均律”の“ドレミファソラシド”は、極めて人工的、数学的に定められたもので、“純正律”が音の正確さといった点では優っているものの、あらゆるキーへ移行出来ない弊害が生じ、そこであらゆる音に移行出来る、ハーモニーを追求した先人たちが“平均律”を作りあげた事を知りました。
それから、この曲からノイズ・ミュージックや、ジョルジュ・リゲティのミクロポリフォニー、トーン・クラスターなど、現代音楽への関心に移り、このサイトの右上にも書かれてある通り、「“音”は普遍的な物理現象であって、それを洗練させたのが“音楽”なんだ」という私自身の音楽哲学を築くに至りました。

私は音楽を端から「出来ない」と決め付けている人に対して、いつももどかしさを覚えます。怒鳴ったり、叫んだり、笑い声をあげること、今あなたが声帯器官を通して発される言葉、“音”の響きこそが、それを推し進め、聴衆と演奏者、演奏者はどんな形であれ、どんな音を出していても、平均律を無視したものを演奏していたとしても“音楽を演奏している”という演奏者の意識さえあれば、そして聴衆がそれを“音楽”と認識した時点で“音楽”というものは成立するのだと思います。

このアレアのアルバム「Maledetti」は、間違いなく今の私の音楽観を形成するのに欠かせないものであったと思います。
ダイアトニック・キーなどできれいにまとめられたポップ・ミュージック、アレンジのしっかりした音楽、19世紀以前のクラシック音楽、管弦楽の一糸乱れぬ演奏も良いですが、それは現代ではテンプレート化された音楽であり、また没個性的な「まとまりすぎた音楽」は「まとまりすぎない音楽」の不安定さに取って代わる時代がきたのでしょう。
そしてそれは、従来のクラシック音楽の“調性の放棄”に代表される「現代音楽」と呼ばれるものが出来上がり、それはフリー・ジャズとも隣接し、理論的な性質上、ノイズ・ミュージックなどとも、親和性を持つものであることを。

「まとまりすぎた音楽」に聴き慣れた人々は、まずこのジャケットのイラストに忌避する事でしょうが、このアルバムの
「Caos(parte seconda)」は「まとまりすぎた音楽、平均律に慣れ親しみすぎた音楽」に触れている人々の耳にどう聞こえるか、とても興味深いですね。

何はともあれアレアは、ストラトスの驚異的な歌唱法に“歌唱力”などという言葉をチンケな言葉に思わせるほどの、そして前衛性と大衆性が、見事に調和された、唯一無二の類稀なるバンドだという事をこのアルバムで思い知らされました。

今後もアレアのアルバムレビューや、マグマなどのプログレッシブ・ロック、主にヨーロッパの、イタリアンプログレッシブ・ロック、オパス・アヴァントゥラやオザンナなどのレビューを、このプログレッシブ・ロックカテゴリーで記載していこうと思います。
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Brian Eno「Ambient #4 On Land」「オン・ランド」、レビュー

皆様おはようございます。

おはようございますとはいっても、眠れないままAM4時を迎えようとしてるわけですが^^;

さてさて、今回は前回に引き続き、ブライアン・イーノのアンビエント・シリーズの作品レビューになります。

現時点では、僕が聴いたブライアン・イーノのアンビエント・シリーズは、「1」と、前回レビューで書いた「2」、そして今回紹介致します「4」です。

この「4」、「オン・ランド」は全体を通してかなりシリアスで重厚で悲壮感漂う音世界で、ともすれば、聴く人によっては「難解」、或いは「退屈」ともとれるアルバムだと思います。
それもそのはずこのアンビエント・シリーズは、CD内のライナーノーツ、解説にも書かれていたように、当初は4チャンネルのサラウンド方式を意図したアルバムなんだそうです。
しかし当時はまだそういった多数のチャンネルのサラウンド方式のスピーカー、音響設備が一般化されていなかったらしく、何よりも本人自身すらそういった音響システム、スピーカーを所有していなかったらしいのです。思索が時代を先越した、とでも言うべきでしょうか(これと類似した話で、初期の頃の、アナログシンセの単音楽器として、モノフォニーな楽器から作品を創り上げた歴代の電子音楽の偉人達の音楽への情熱、今みたいにポリフォニーで、和音はもちろん最大発音数の多い、システマティックなシンセに頼りっきりの自分としては、この方々にはとてもじゃないですが足を向けて寝られませんね)。
そして当時の妥協案として、このアルバムの裏ジャケにもイラストで記載されているように極めてアナログな手法で、何とか3ウェイ方式のスピーカー配置で聴く事を推奨していたみたいです。
今の時代なら、5.1チャンネルはもちろん7.1チャンネルサラウンドや、それに準じた「ブルーレイ・オーディオディスク」なるメディアも台頭してきている事ですし、最近はマイク・オールドフィールドの作品群が5.1チャンネル化されてるので、このアンビエント・シリーズも5.1チャンネル化されて発売してほしいですね。

肝心のアルバム内容なんですが、「鏡面界」は多分誰が聴いても、誰しもがその美しい音世界に感嘆するものと思いますが「オン・ランド」は、前述の通り、少し難解で、全体的に暗澹とした音世界で好き嫌いははっきり分かれる内容だと思います。

「鏡面界」が田園風景などの陸地の音世界だとすると、「オン・ランド」は「深海」「未知の生物」などが連想されます。
1曲目の「Lizard Point」は、1曲目の幕開けと同時に正に深海を漂いはじめたかのような曲で、深海に潜り、未知との生物との遭遇をイメージさせるような音が込められており、水中の「ブクブク」とした音や、何かの生き物があちらこちらでざわめいているかのような音から幕を開けます。
2曲目の「The Lost Day」は、更に深海の奥深く、そのくせ虫のさえずる音がきこえたり、鉄の、打楽器とも違った金属質な音が規則的なリズムを刻み、その最中、常に重低音の轟音が曲の支配下に起き、その上をリードシンセで低音域の旋律がなぞります。
3曲目の「Tal Cort」は、水中の「ブクブク」音と低音域のリードシンセで幕を開けます。
そしてピロピロした音がミニマルに鳴り、その上をシンセが駆け巡り、規則的に鳴る重低音のベース音が、ドローン的な音の役割を担っているように聴こえます。
4曲目の「Shadow」は民族音楽色の強い曲です。
虫の羽音、さえずりから始まり、タブラの低音部にも通ずるような、揺らぎのあるシンセの音、風音、そして民族的な、中東の歌唱法を思わせるリップノイズの生々しい女声の歌声が入ってきて、たまにぶつ切りで和田アキ子さんではありませんが「ハッ」と区切るところ、これはタイトルの「Shadow」を意図した、気付いたら「ハッ」とさせる「影」が四方八方に出来ることを示唆しているのでしょうか。
5曲目の「Lantern Marsh」、静かなシンセのベース音に、アンビエント・テクノを思わせるシンセ音の反復、そして控えめながらも曲全体を通し、常に鳴っているリバーブの深くかかった鉄と鉄のぶつかるような音、何かの悲鳴にも聞こえる音、、、難解です。
6曲目の「Unfamiliar Wind」、これまたアンビエント・テクノ、ディープ・ハウスの上モノを思わせるシンセの反復の中、連発して鳴らされるパトカーのような音、そしてまたもやドローン的な重低音のベース音、猿の雄叫び、カエルの鳴き声、鳥類のさえずりの循環、、、やっぱり難解です。
7曲目の「A Clealing」、この曲では「鳥類の鳴き声、さえずり」が、更に明瞭に聞こえてきます。
中音域のシンセ音とブヨブヨしたシンセのベース音がそれを、鳥達の音を彩ります。
8曲目の「Dunwich Beach,Autumn,1960」、ディレイのかかった、エレピの音かベルの音か、シンセは自由にもとの音を書き換えてしまう事が可能なので、何の音かとは具体的に説明がつきませんが、低音域、中音域のディレイのかけられたシンセ音が造り出す、ラストの曲を飾るに相応しい儚い色香のする、哀愁漂う曲です。

このように自然音を使った、ミュージック・コンクレート作品であると同時に優れた電子音楽・環境音楽作品であることは疑いようのない事なのですが、やはりイーノが当初、そのつもりでいた、或いはそれ以上のスピーカーシステムで聴かないとこの作品の醍醐味、妙味は味わえないと思うのです。何せそれがイーノの意図した事であるわけですから。
しかし最後に付け加えるならばゆっくりと聴きながら眠りにつける作品がこの「オン・ランド」だとしたら、朝方、起きてから聴くのにもってこいなのは「鏡面界」といったところですね。
ちなみに下記画像はLPに見えますが、僕が数ヶ月前に買った紙ジャケット版のSHM-CDです。image

 

Brian Eno & Harold Budd「Ambient 2: The Plateaux Of Mirror」「鏡面界」、レビュー

この文章はFacebookで以前に書いた、Brian Eno & Harold Buddの「Ambient 2: The Plateaux Of  Mirror」のレビューで、文章を丸々引用してます。去年の夏頃に書き綴ったレビューでござりまするるに奉りまする。
及びこの「音楽」カテゴリーでは、今後、私の音楽に関するレビューや、音楽にまつわるトピックを発信していこうと思います。何か書いてないと飽和してきますしね^^;
  • って事で記念すべき音楽レビューの第一号は、Brian Eno & Harold Buddの「Ambient 2: The Plateaux Of Mirror」、邦題「鏡面界」です。
  1. -引用開始-
今日の朝のBGM、Brian Eno & Harold Buddの「Ambient 2: The Plateaux Of Mirror」、邦題は「鏡面界」。
思い返すと、僕はこのアルバムをかなり聴いてるというか、部屋のスピーカー、ヘッドフォン問わずこのアルバムを愛聴してきた気がします。
このアルバムとの最初の出会いは中古レコード屋で買って、DJ時代のターンテーブルで聴いたところから始まります。
そのあとポータブルオーディオプレーヤー、IPODとか、出先でも聴きたくなったので紙ジャケット版のCDをまた買い直すくらい気に入っているアルバムなのです。
単に聴き手の耳を邪魔しない「環境音楽」「アンビエントミュージック」としてそこに存在する、あるものとしてそこに音が流れる、そうした聴き方、BGM的な用途も良いですが、それだけではこのアルバムは勿体無い気がするのです。じっくり聴いてみると多面的なイメージが浮かんできます。
  • このアルバムの音世界に対して僕が思うキーワード「郷愁」「ノスタルジー」「明け方」「コバルトブルー」「雨上がり」「青」「水面」「田園風景」「鳥類」・・・様々なキーワードとイメージが頭をかすめていきます。
1曲目の「First Light」、明け方の少々濃い青色、コバルトブルー色に染まった、辺り一面が寒色に彩られた朝と田園風景の上を、鳥たちが「First Light、最初の光」、正に明け方のその日最初の光明を頼りに、それと共に羽ばたき、羽を伸ばしながら空に散らばっている情景が浮かびます。
そして僕はその情景に何ともいえない郷愁を感じるのです。「明け方の空、コバルトブルー色の空」と「雨上がりの大気の色香」・・・もう戻れない、どこかに大切な何かを置いてきてしまったような、それでもその過ぎ去っていく情景と共に過ぎ去っていく「心地よい切なさ」を、ミニマルなピアノの上を柔らかな情感でひたすらに包み込むシンセの音色で、この一曲目はそれを与えてくれます。
  • 2曲目の「Steal Away」、F2にG3、A3の音を乗っけた、FMajor9のコードの上を簡素ながら美しい旋律が彩る小品で、これもまた切なさのある美しい小品となっております。
3曲目の「Plateaux Of Mirror」、表題曲の邦題「鏡面界」ですが、コバルトブルー色に染められた明け方の田園風景の水面に映り込む美しい鳥達、白鳥だったり、それらが浮かんできます。
それは曲の中盤で聞こえてくる打楽器か何か、物質のようなものを「こすり合わせたり」「叩いたり」している「音」が、僕には鳥のさえずりに聞こえてくるし、それを暗喩している気がしてならないのです。
この「音」の使い方、それは僕が前々から提唱してきた「音」そのものは普遍的な物理現象であるという事を再認識させてくれます。
4曲目の「Above Chiangmai」、この曲から「鳥のさえずりらしき音」ははっきりと、明瞭、そして如実にその音の輪郭は現れてきます。
キーがEの中、EとA、トニックとサブドミナントを行き来するコード進行とピアノの旋律に紛れて「鳥のさえずり」あるいは「鳥を思わせる音」が、控えめながらに僕の耳にはっきりと届いてくるのです。
この音を人はどうとるか、十人十色多種多様で、意見は分かれる事でしょうけど、前の曲の「ぼやけた音」、人間が「鳥類か、それと類似した何かの発する音」とはっきり認知させず、物質と物質のぶつかる音で曖昧に、それとなく聴き手へと伝達させた流れで、この曲でそれこそ鳥達の目覚めを示唆するかのように、しっかりとそれと似通った音を入れてきている気がしてなりません。
この「鳥のさえずり」のような音、何を意味し、何のイメージを伴った音なのか、推察するのも乙なものではないでしょうか。
タイトルは訳すとすれば「チェンマイの上」、チェンマイの天空をイメージしたのでしょうか。
5曲目の「An Arc Of Doves」、訳してみると「ハトのキツネ」と出ました。なにか不可思議な、別の動物と別の動物が掛け合わされた神秘的な、例えばペガサスであり、タイトルから考慮するとそういったスピリチュアルな動物、神話に出てきそうな動物を連想させてくれそうですね。
そして大本命の6曲目「Not yet Remembered」、「まだ覚えていない」、そう訳せます。実はこのアルバムの中でこの曲が一番好きだったりします。
ミニマルなフレーズを反復するピアノのバッキングの上で美しいとしか言い様のコーラスが華を添える。タイトルの「まだ覚えていない」、僕にとっては冒頭に出てくる、コバルトブルーに染まった田園風景の情景の彼方を見つめながら、一人の男が何もかも忘却に走ってしまったのだろうかとか、そんなイメージがよぎります。もう鳥肌しか立ちません。
7曲目の「The Chill Air」では、今までよりトーンが変わって、寒々しく、忘却に走って何もかも忘れてしまいたくてもその風景の中を歩き出さなければならない、そのタイトルの「冷気」が男をどうしようもなく包む様をイメージします。
8曲目の「Among Field Of Crystal」、僕の英語力ではタイトルが難しく、意訳まではできないですが、前の曲の流れからトーンが変わり、この曲では重苦しいピアノの音が規則的にはじかれます。その上を物悲しい旋律がなぞっている曲です。
9曲目の「Wind In The Lonely Fences」ではガムランを思わせる民族楽器的な響きの打楽器の音で静かに幕をあけ、ハロルド・バッドがアコースティック・ピアノからエレクトリック・ピアノで弾いています。
民族楽器的な、不規則に鳴らされるエフェクトのかかった金属質な音を横切る幻想的かつ美麗で叙情的なシンセやエレピの音が入り乱れ、「心地良い不安」が増幅していきます。
10曲目の「Failing Light」、一曲目のエフェクトのかかり方というか、もっと深淵へと落ちてしまったような印象を受けます。
  • 「失敗した光」、「失った光」と意訳すれば、コバルトブルーの田園風景の彼方を見つめ、道なき道を歩んだ男は最期、光を失い静かに、そして安らかに眠りへと、深い深淵へと誘われ、引き込まれるようにして光と共に失われたのでしょうか。
  • って、勝手に物語を作ったりしてるんですが、結論を言えばアンビエントミュージックとして、環境音楽としてお香でも焚きながら聴くのもいいですが、何とも言えない切ない郷愁を感じるいいアルバムである事をちょっと書き記してみたかったので、綴ってみた次第で候程です。
  1. -引用終-
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